サヤ

 なげちがプレイしたらしいので。少し前に書いた沙耶のレポートをフロッピーから取り出して読んでみたんですが。
 ゲロゲロ。
 単位なんて絶対に貰えそうもないや。やっぱり自分はレポートって大の苦手なんだよなあ、と半笑いで思ってしまいました。まあ、それはどうでもいいんですが。

 やっぱり、僕がこのゲームを手放しで褒められないのは(まあ、悪くはなかったけど。いや、結構良かったけど。みたいな)、主人公がはじめっから人間やめていた点にあると思います。つまり、初めから人間と人間以外に分かれていて、主人公は人間以外の側だった。勿論、それは事故でぶっ壊れたんだ、って見方もできますが(というよりそうなんでしょうが)、ゲーム中にそういう点はほとんど出てこず、主人公側の視点からすればむしろ逆側の印象しか浮んで来ません。
 で、結局。人間やめた男が、人間じゃない女と出会って。その人のために嫌なヤツ(向こうは友達と思ってる)と戦って。最終的には世界ぶっ壊れたよワーイ、みたいに見えたわけです。個人的に、あくまで僕には、ですが。なので、ラストの綺麗な音楽もシーンも、見ててなんか居心地が悪くなったのです。確かにラブストーリーだったけど、なんか違うんじゃないか、と。
 簡潔にいえば、僕にとっては切なさが足りなかったんです。日常にタイクツしてたヤツが本格的に人間じゃなくなって、それで暴走したからって切なくもなんともない。ヲタクがブツブツ言いながらバスジャックするのとなんら変わらないと思うのです。僕としては、あくまで主人公には人間であってほしかった。例えば本編で、もし仲間との友情とか淡い恋みたいなのが主人公視点で書かれてて、でも自分は人間じゃなくなったから(目が壊れたから)、本当は人間でいたいんだけれども、人間じゃない自分を受け入れてくれた沙耶を選ぶ。みたいな感じだったら俺は間違いなくマジ泣きしてたなあ、と思うわけです。
 僕がこういう感想を抱いたのは、背後に『火の鳥復活編』て漫画があったからだと思います。というのも、設定だけ見れば非常に良く似ているし、沙耶作中でもオマージュだと語っている場面もありましたし(個人的には鬼哭街でもあったと思うのですがそれはどうでもいいので)。で、この主人公もフミノリと同じように、事故で人が人に見えなくなってロボットに恋するわけです。そして紆余曲折を経て、主人公とロボットがひとつになって(文字通り、脳と脳が)天に昇っていって終了。ここで作られたロボット(ロボット+主人公ね)は、最終的に遠い未来で『私は人間だ』と主張して自殺するのですが。
 これと沙耶を対比して、やはり主人公の差が出るなあと。火の鳥主人公の『自分は人間だ!!』って叫びがとても悲痛で、それゆえにロボットとの愛が切ない(原子炉でのデートシーンがもう……)のに対し、フミノリの『人間? どうでもいいじゃん。沙耶がいるんだから』みたいな、現実逃避、自己本位的な感じの愛はどうにも馴染めません。



 無意味に長々と書いたんですが、結局のところは『主人公がシャバかったので馴染めませんでした』の1行に集約されるわけなのです。苦悩のない選択なんて美しくも切なくもない、と考えるタイプなので。
 その上で、これをラブストーリーと定義するが感覚的に嫌です。初めから人間じゃない2人の都合で(人間の)世界壊されてもなあ、と。無論、沙耶側に立った時の『砂漠にたった一人だけでも華を愛してくれる人がいるって知った時』というセリフを知りながら、でもこれを生かすんだったら、『愛してくれる人』は人間である方が切ないと思います。歯を食いしばりながら沙耶を選ぶ感じの。だから、白い部屋エンドは綺麗だなー、とか思ったわけなのですが。少数派のアウトサイダーラブが多数派を超えるのもねえ。
 感覚的に合わない、ってことなのですが。それか火の鳥マンセー



というか、自分はつくづく、考え(思想、感覚)を文章とか言葉とか、共通な形あるものにするのが苦手だなあ、と切なくなります。だからレポートとかトークは超苦手。公務員なりてえなあ。


あーなんか、あれ。
 隣でAV見てるヤツの、そのAVをチラチラ見てる自分が嫌い……。
……って、あれれ……?
 ――――。
 ……両方とも男じゃねーか。さっきまで男と女だったのに。
 ――――