沙耶の唄

 をプレイしてみました。それでまあ、今日はそれについて感じたこととか考えたことをつらつらと書いてみようかと思います。多分ネタバレじゃない(むしろならない)と思うんですが、そういうのが苦手な方はスルーでお願いします。ていうか相当つまらないこと書いてるんで、アッサリ消すかもしれませんが……。








 印象としては『ACRI』を観た時と似ているかもしれません。つまり、『人間の相手は人間、という発想自体が古いものなのだろうか』と言うことです。
 現代はそういう境界線が非常に曖昧になっている時代です。アメリカの某州では同姓同士の結婚が認められましたし、バウリンガルなんていう代物まで作られました。『人間も生き物の一員だ』なんてキャッチコピーが当たり前のようになり、ペットを家族として扱うようになって久しい。いい年のオジさんたちが女子高生と恋愛をし、モーニング娘のファンになっています。
 別にそれらが間違っていると言うんじゃないんです。ただ、やはりこの時代が過渡期であることは間違いないと思います。つまり、人間というものを見つめなおす時。『人と犬』、『男と男』、『機械と女性』の恋。それらが愛情であるのか、それとも勘違いなのか。それを定義しなおす時ではないかと思うのです。
 稀に僕がテーマとして扱う『獣姦』もその一部です。人間の代価物として、いやむしろストレートな愛の対象としての『動物』 それは愛と呼べるのか、またはただの気持ち悪い勘違いなのか。沙耶を愛した郁紀は人間なのか、それとももう既に彼は『狂って』いるのか。トゥルーと一つ目のバッドを綺麗と感じた時点で、僕は既に『向こう側』にいるのかもしれませんが。
 沙耶の唄の第一印象は、手塚治虫先生の『火の鳥』です。何編か忘れましたが、機械を愛する脳障害の男の話がありました。残念ながら結末は覚えていませんが、その書かれ方はとても印象に残っています。そのアンドロイド以外は、本当に味気なく表される世界の描写。その男性の苦悩の生々しさは、まさに筆舌に尽くし難いものがありました。しかし、多分当時は今ほど日本は『爛れて』いなかった。人間の相手はあくまで人間であり、手塚先生のそれは、まだ『人間不信』として片付けられるものだったのです。しかし今では、それも『ラブストーリー』として受け入れられるでしょう。
 もちろん、それが間違っているとか正しいとかそういうんじゃないんです。ただ、沙耶のエンディングを見て『綺麗だ』と感じられる感性。それがすでに次の時代のものだと思うんです。人の相手は必ずしも人でなくていい、その甘美なニヒリズム宮崎駿先生の描く人間賛歌が、ストーリー以外の面では古臭くなるような面は、確かに出てきていると思います。次には、恋人や家族を犬や猫、コンピューターやアンドロイドに代用、いやそれ自体になる時代が来ているのかもしれません。
 架空の恋人に酔いしれられるならば、沙耶の唄はノスタルジーさえ含まれる甘美さをもって迫ってくるでしょう。しかし僕は、それがちょっと切ない。まだ人の相手は人であって欲しいし、沙耶は全存在をかけて殺すべき存在だと思うし、郁紀がイカれていると思いたいです。だから、その意味でこのゲームは僕の一歩先を行っている。沙耶を肯定するエンディングしかないですからね。それを出来れば共感したくないんですが、けれども綺麗だと感じる自分もいるんです。二つの思想に囲まれた、時代と時代の裂け目。普通に100&『気持ち悪い』とか『綺麗だ』と思えればよかったんですが。
 今僕には好きな人がいて、なんとかその人に振り向いてもらおうとしています。しかしこの先、その努力すら無駄になる時代が来るのかもしれません。この葛藤が要らなくなる人間は、それは何なのか。過渡期に生きる人間として、『沙耶の唄』はそんなことを考えさせてくれました。



……長々と無駄なことを語りましたが、このゲーム、結構良かったと思います。ていうか普通にホラーとして楽しむものであって、こんなこと考える僕はやっぱちょっとダメ人間だなあ、と苦笑いしてしまいました。本当、ど う す れ ば い い ん だ